とある夏の、昼下がりのことじゃった。
真夏の炎天下、近江の国は琵琶湖の浜に、
一心不乱に竿を振る釣り人が居ったそうな。
その日の釣果は残念ながら。
それでも、飽きもせずに、お気に入りのルアーを投げ続けて居った。
その甲斐あってか、数回水面が割れるのじゃが、
残念なことに、フッキングには至らず、ホンに参っておったところ・・・・・
「おい!そこの釣り人。」
と、どこからともなく、呼ぶ声が聞こえたような気がしたんだと。
しかし、釣り人が辺りを見回しても、誰もおらん。
不思議に思っておると、今度は、
「おい!釣り人。早よう助けよ!」と。
これは一大事、と思った釣り人は、再び辺りをキョロキョロ見回るのじゃが、
浜のどこを見ても、背後の林にも、やっぱり誰も居らん。
怪訝な顔で、湖面に浮かぶルアーを回収しようと湖面に目をやった時じゃ。
なにやら、モゾモゾうごめいておるものが居ったそうな。
「なんじゃこら。」と、目を凝らすと、
どうやら一匹のかぶとむしが居ったんじゃと。
釣り人が近づき、目と目が合ったその瞬間、
「おい!早ようせんか!」
と、そのかぶとむしが、ずいぶんと横柄な態度で言いおったとかどうだとか。
幸い、周囲の水の中には、そのかぶとむしを狙う魚影は無く、
釣り人は、そっと両手で掬ってやり、ウェーダーに取り付けてやったんじゃと。
「ふーっ。助かったわい。」と、ホッとした様子のかぶとむし。
礼も言わず、ずいぶんと偉そうな物言いだと感じていた釣り人じゃったが、
相手は、虫の王様と呼ばれる、かぶとむしのこと。
仕方がないかと、水から上り、背後の林へ逃がしてやろうと歩きはじめると・・・・・・
「釣り人よ、礼がしたい。このまま林を奥まで行けい。」と誘ったとか。
しかし、未だ一匹の魚も掛けておらん釣り人は、
「礼はええ。早よう、林へ帰りなされ。」と、そっと木に移してやったんだと。
亀を助けた浦島太郎は、竜宮城で饗宴に耽って居ったが、
この釣り人、そんなことより、とにかく気持ちのいい一本が釣りたかったようじゃ。
そして、結局お礼の一言も言わずに、木へ移ってからどこへやら姿を消した虫の王様。
釣り人は、少々惜しいことをしたような気になりながら、
その後もルアーを投げ続けたんだと。
時折、背後の林を気にしながら、
心のどこかで、かぶとむしを助けてやった恩恵に授かれるなどと期待しよってな。
じゃが、ほんとに釣れん。
釣れんどころか、遠投を意識しすぎてバックラッシュじゃ。
徐々に日も傾き始め、虫たちの時間が訪れる頃になっても、
一向に、かぶとむしの恩返しが届かん。
待てども待てども、投げても投げても。
・・・・・・・・
結局、かぶとむしからのお礼はひとつも無く、
ボウズでこの日の釣行を終えたそうな。
それからじゃ、
夏のこの季節になると、
あの浜でウェーディングをしながら、あの日のかぶとむしの恩返しを、
釣り人は、未だに待って居るんだとか。
いやいや、見返りを求める、偽善的な行為は慎むべきだということじゃ。